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FESTIVAL FRUEZINHO 2022 @立川ステージガーデンを観に行きました

6/26(日)にFESTIVAL FRUEZINHO 2022を観に久々に立川へ足を運んだ。

あまりにもユニークで素晴らしすぎるオーガナイザー・FRUE主催のイベントは2度参加したことがある。
一度目は2018年5月、Hermeto Pascoal e Grupo @ 渋谷 WWWX公演。
二度目は2018年11月、FESTIVAL de FRUE 2018 @ つま恋 リゾート彩の郷(静岡県・掛川市)。
どちらも、コロナ禍前の良き時代の象徴の出来事として、記憶に残っている。

生楽器で怒涛のアンサンブルを繰り出す弟子たちを後目にDX7を弄くり回すHermeto Pascoalお爺さんの姿は一生忘れないだろう。ああ、もう一度あのカッコ良くて、お茶目で、技巧的で、喜びに満ち溢れた音楽が奏でられていた、コロナウィルスの気配すら無かった時間に戻りたい。
そして、既に真冬へ片足を突っ込んでいた掛川の寒くて開放的なステージで聴いた、Bruno PernadasとSam Gendelの演奏は、生きる喜びや、音楽の存在意義を確かに感じられるような、一生の思い出に残る演奏だった。
実はその年のFRUEからの帰路で、出演ミュージシャンに纏わるドラマティックな展開があったのだが、それは別の機会に書くことにする。

そんなBruno PernadasとSam Gendel(と僕の大好きなSam Wilkes)がいっぺんに来日すると聞いて、流石に行かないわけにはいかない。

立川という絶妙な立地・開放的なホールである立川ステージガーデンで開催されたFESTIVAL FRUEZINHO 2022は、率直に言って非常に新しい音楽体験だった。

スタンディング必須のステージ最前エリアと後方の着席エリア、そして、ステージを上から見下ろす形でゆったり観れる2階席・3階席が行き来自由なのは画期的だった。
僕はレジャーと化した野外型音楽フェス、閉塞的なライブハウス系音楽フェス、どちらも苦手な不届き者の音楽ファンなので、痒いところに手が届くというのはまさにこのことだなあという気持ちで演奏を観ていた。

この日の東京の最高気温は6月末にもかかわらず36度を記録しており、野外の音楽フェスだったら熱中症患者が続出していただろう。もちろん会場は空調が効いたホールなので快適だった。最前スタンディングでも盛り上がれるが、疲れたら椅子で座って観ればいいし、なんなら途中でホールの外でご飯を食べに行ったり、ディスクユニオン立川店に寄るのも良し。
野外での過酷な環境でスタンディングや、指定席での鑑賞、酔っぱらいとの共存を強いるのではなく、各々の楽しみ方を提案してくれるスタンスが心地よかった。

「もっとそんな開放的なホール型の音楽フェスが増えてほしい」と感じるほどに快適だったが、良い意味でも悪い意味でもあらゆる緩さを許容するFRUEが主催だから為せる技・雰囲気な気もしている。FRUE×立川ステージガーデンの組み合わせはある種の奇跡なのかもしれない。

出演バンドの話。
最初の演奏はcero。本命のBruno Pernadasに備えてまずは3階に登りのんびり聴いていたが、音像がぼんやりしている印象があった。「8人編成の大所帯だからミックスの難易度が高いのかな?」と勝手に推測していたが、終演後ツイッターを見ていたら答え合わせが出来てしまった。
ceroのエンジニア曰く、「当日は出音の音量制限があって、その中で音のダイナミクスを表現するのは本当にキツかった」とのこと。

続けて「そもそも音が小さいのが悪なの?」とツイートされているが、その点には全面的に同意する。
フェスは音が大きすぎると常々思う。全体の音量を大きくした上でさらに低音を強く効かせる傾向があるが、その結果、迫力は当然生まれるが、音像が汚くなりアンサンブルが非常に聞きづらくなる諸刃の剣と化しているように思う。もはや色んな音域を楽しむ体験としての音楽ではなくて、音圧・迫力だけを強調する残念な結果となっていないだろうか。
FRUE FRUEZINHOはサウンド面も良かった。他のバンドはおそらく制限を超えた音量が出ていたはずだが、全体を通して一般的なフェスとは異なる、抑制の効いた、バランスの良いサウンド、サラウンド、そして心地よいダイナミクスが生まれていた。そういう点を踏まえてもやっぱりホール公演が好きだ。

話を戻す。途中で1階に降りてみたらceroの演奏がまったく違って聴こえた。ぼやけた音像がかなりクリアになっていた。ceroはステージ前で観たほうが魅力が増すバンドなのだろう。ただし、ceroのサウンドについては、ドラムの3点(スネア・バスドラ・ハイハット)を中心に据えたミックスで聴きたかったというのが正直なところ。
そういう聴く場所によって音像がハッキリ変わる特性も、今回のフェスの面白さの一つだった。
最後に演奏された“Fdf”は角銅さんのカウベルとシンセベースの絡み方が最高にクールだ。僕の大好きな80年代中盤のニューヨークディスコ、ダンスパンク、パラダイスガレージを思い起こさせるグルーヴがこの曲にはある。LCD SoundsystemやGwen Guthrie、Liquid Liquidに比類するアンサンブルに心が震えた。
曲名は忘れたが、演奏が止み、メンバーたちの歌声のみが響き渡る、演者と聴衆と環境が一体となった場面も美しかった。そうした瞬間を享受するために僕はライブを観に来ている。

Bruno Pernadasは最前列で観た。
とんでもなくズバ抜けて素晴らしい演奏することは最初の音が鳴らされる前から分かりきっていた。
その聴衆としての期待値の高さは、2018年に掛川で観たライブの思い出、およびこのスタジオライブの動画を観て家で踊りまくっていた事実に基づいている。

演奏は本当に本当に素晴らしかった。出番が終わらないで欲しかった。翌朝まで演奏を続けてほしいと心から思った。MPB的な軽やかで、ダンサブルで、ジャジーなアンサンブルのみならず、歌心有り、ロック有り、プログレやカオティックな要素すら兼ね備えた音楽性を携えて、様々なジャンルを行き来しながら、一貫して美しくて楽しい音楽的宇宙は、はっきりと聴衆を魅了していた。Bruno Pernadasの音楽を知らなかった聴衆は、最後には全員ファンになってしまった、そんな雰囲気がムンムンだった。

リードボーカル兼Keyboard・Margarida Campeloの歌声は凄まじかった。全くピッチはブレないし、高音はどこまでも伸びて、常に笑顔を絶やさずにこやかだった。
楽しんで演奏している人たちを観るのは本当に幸せだ。
ベースのNuno Lucasはストラップを右肩にかけ、重心低くローポジションで威嚇しながら(?)ベースを弾いていた。見た目の奇抜さとは対象的に、プレイ自体は縁の下の力持ち的な安定感のあるそれだった。
そのアンバランスさも非常に癖になる。

鍵盤ではなくギターを軸としたボイシング・音作りの面もユニークだ。
ダンサブルなリズム隊に、時折エジプトのギタリスト・Omar Khorshidのようなエキゾチックフレーズが繰り出されるのがたまらない。
ギターで初音ミクの歌声を出す(MIKU STOMP)、飛び道具的エフェクターも効果的に使いこなすセンスも本当に素晴らしい。

Bruno Pernadasはそのキャッチーかつユニークでウィアードな音楽性と、とてつもない愛嬌の良さで、ライブを観た人たちを確実に虜にしてしまう、魅力的なバンドだと改めて感じた。

新アルバムからの楽曲でセットリストを構成した坂本慎太郎バンドはなんとなく3階席で観た。
これが大正解だった。
4人を照らすライティングの演出が見事で、ふわっとしながらもソリッドな音像が相まって、夢の中の映像のようだった。
1970~80年代のサンフランシスコ・ウィンターランドで行われたグレイトフル・デッドのライブってきっとこんな感じだったんだろうな。
暗がりの3階席でイチャつくカップルを視界に入れながら、ステージを上から見下ろしながら坂本慎太郎の歌声を聴くシチュエーションは、皮肉とかではなくとにかく最高だった。坂本慎太郎の音楽は、やはり踊ったりイチャつきながら聴くべきだと思うので。
ホールで坂本慎太郎の演奏を聴く体験、今後あるのだろうか。そう思うと、これはある種の夢だったのではないか。

クラッシュシンバルを排除したタイトなドラムが非常に効果的で、抑制の効いたベースと共にソリッドなアンサンブルを生み出していた。陳腐な言い方をすると、クルアンビン的であった。
そのリズム隊に乗っかるのがとにかく嘘みたいに綺麗な出音のサックスと、これ以上SGを綺麗な音で鳴らすことは出来ないのではないか?と思わせるほどに最高の音色で奏でられるこれまた嘘みたいに綺麗な出音のクリーントーンのギター。
坂本慎太郎が時折見せる、すり足で弧を描く動きも好きだった。
各パートをじっくり聴けたのも、ライブハウス的ではないFRUE特有の音響が功を奏した一例だと思う。

最後はSam Gendel & Sam Wilkes。2階で座って観た。
8人→6人→4人→2人と徐々に人数と音数が減っていく、大トリは最少人数、そんなタイムテーブルを組んでしまうFRUEのセンスが大好き。

ゆっくりと、静かに日曜日が終わっていく。日曜日の夜は憂鬱の権化だが、しかし、また「希望の朝だ」と言わんとばかりに明るい太陽がジワジワ昇ってくる。祭りのあとのようで、祝祭の真っ最中のような趣も兼ね備えている、そんな演奏だった。
音色はピッチ系や空間系のエフェクトでドシドシ変化させたり、音域を増やしていきながらも、フレーズはミニマル的に反復させたり、或いは既存の楽曲から引用しながら、それらをリズムボックス上で絡ませて化学変化を生んでいくスタイルは、まったく聴いていて飽きなかった。
Sam Gendelが吹くフレーズには時折民謡や歌謡曲を感じさせるものもあった。
Sam Wilkesのベースは低音でフレーズを反復させる一方で、高いフレットの音でコードを鳴らし、ジャズ的なアプローチのギターのような役割も担っていた。

即興のアプローチを取りながらも、二人はミュージシャンとしてガッチリと心が繋がっている。だから聴衆も安心して二人の演奏に耳を傾け身を委ねられるし、当然の帰結のように完成度の高い音楽がやはりステージ上で奏でられる。
そんな二人を静かに見守るオーディエンス(途中大きな声で歓談する人たちの声も聴こえたが、Sam Wilkesによるワイルドなスラップベースがいつの間にかかき消していた)が生み出す雰囲気は夏の宵を彩っていた。

でもやっぱり僕はこの静かでダイナミックな音楽を、静岡で、掛川で、寒い風に当たりながら聴きたいと強く思った。
サックスから漏れる吐息は、秋と冬の合間をすり抜けて行く冷たい風にとても合う。
子供の泣き声が彼らの演奏と調和した瞬間のように、彼らの音が自然と調和する瞬間に立ち会いたい。
これまた素晴らしいPino Palladino and Blake Mills(当然Sam Gendelもいる)の演奏が今年の秋、掛川で聴けると思うと非常にワクワクする。
立川ステージガーデンの空間も素晴らしいけど、やはり自然の中で聴くべき音楽というのは確かに存在する、そう思う日でもあった。

最後のアンコールでミルトン・ナシメントの「Ponta De Areia」、「O Trem Azul」のフレーズが登場して僕は思わず泣きそうになった。客席からも歓声が上がっていた。

今後語り継がれるであろう素晴らしいイベントで心が豊かになった、西東京の郊外・立川での美しい1日だった。

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